1.〈知〉を問う
1-1. 知性
その知性はほんとうに知性的だろうか
物理的な存在としての生命が、「カオスの縁」に立ち、混沌から分子を取り入れ「形」を作り生きているように、知的な存在としての人間はこの「分からない」世界から、少しずつ「分かること」を増やし「形」を作っていくことで、また別の意味で「生きて」いる。その営みが、何か世界に新しい空間を生み出し、その営みそのものに人の喜びが隠されている。そんなことを思うのだ。
(…)
「分からない」世界こそが、人が知的に生きていける場所であり、世界が確定的でないからこそ、人間の知性や「決断」に意味が生まれ、そして「アホな選択」も、また許される。いろんな「形」、多様性が花開く世界となるのだ。それは神の摂理のような真実の世界と、混沌が支配する “無明の世界” のはざまにある場所であり、また「科学」と、まだ科学が把握できていない「非科学」のはざま、と言い換えることができる空間でもある。
中屋敷均
「科学と非科学のはざまで」
東京大学 2019年度 第1問
テクノロジーは、実行の可能性を示すところまで人間を導くだけで、そこに行為者としての人間を放擲するのであり、放擲された人間は、かつてはなしえなかったがゆえに、問われることもなかった問題に、しかも決断せざるをえない行為者として直面する。
伊藤徹
『芸術家たちの精神史』
東京大学 2017年度 第1問
私は、知性というのは個人に属するものというより、集団的な現象だと考えている。人間は集団として情報を採り入れ、その重要度を衡量し、その意味するところについて仮説を立て、それにどう対処すべきかについての合意形成を行う。その力動的プロセス全体を活気づけ、駆動させる力の全体を「知性」と呼びたいと私は思うのである。
内田樹
「反知性主義者たちの肖像」
東京大学 2016年度 第1問
現在では、あらゆる人々が加筆訂正できる百科事典のようなものがネットの中を動いている。(…)無数の人々の眼にさらされ続ける情報は、変化する現実に限りなく接近し、寄り添い続けるだろう。断定しない言説に審議がつけられないように、その情報はあらゆる評価を回避しながら文体を持たないニュートラルな言葉で知の平均値を示し続けるのである。明らかに、推敲がもたらす質とは異なる、新たな知の基準がここに生まれようとしている。
しかしながら、無限の更新を続ける情報には「清書」や「仕上がる」というような価値観や美意識が存在しない。無限に更新され続ける巨大な情報のうねりが、知の圧力として情報にプレッシャーを与え続けている状況では、情報は常に途上であり終わりがない。
原研哉
『白』
東京大学 2009年度 第1問
だがこの論理は事態の「不気味さ」に目をつむっている。医療のテクノロジーがもたらしたのは、「人ではない身体」とか人体の「資材」化とかいう、人間のまったく「非人間的」な可能性なのだ。(…)人間はこの「不気味」な状況を欺瞞なしに受けとめ、そこに身を開きながらありうべき関係を探ってゆくほかはない。それが「非人間化」する世界の中で、唯一保ちうる「人間的」態度だと言えるだろう。
西谷修
「問われる『身体』の生命」
東京大学 1998年度 第1問
いずれにせよ科学者は講義と教科書によって、一定の自然観と方法を無意識に身に付けるのであって、すべては自明のこととして受けとられる。小学校のときからそのように育てられているのである。そういうわけで、この前提は、問いの立て方をも決めるものである。
坂本賢三
『科学思想史』
東京大学 1996年度 第1問
1-2. 認識
言葉を獲得したヒトの目に映る世界とは
ポパーは、『歴史主義の貧困』の中で「社会科学の大部分の対象は、すべてではないにせよ、抽象的対象であり、それらは理論的構成体なのである(ある人々には奇妙に聞こえようが、「戦争」や「軍隊」ですら抽象的概念である。具体的なものは、殺される多くの人々であり、あるいは制服を着た男女等々である)」と述べています。同じことは、当然ながら歴史学にも当てはまります。歴史記述の対象は「もの」ではなく「こと」、すなわち個々の「事物」ではなく、関係の糸で結ばれた「事件」や「出来事」だからです。「戦争」や「軍隊」と同様に、「フランス革命」や「明治維新」が抽象的概念であり、それらが「知覚」ではなく、「思考」の対象であることは、さほど抵抗なく納得していただけるのではないかと思います。
野家啓一
『歴史を哲学する――七日間の集中講義』
東京大学 2018年度 第1問
個別的ないとなみや作品と全体的な領域のあいだに、多様なレヴェルの集合(ジャン ル)を介在させ、しかもそれぞれのジャンルのあいだに、一定の法則的な関係を設定することによって、芸術は、ひとつのシステム(体系)としてとらえられることになるだろう。近代の美学において、「芸術の体系」がさまざまな観点から論じられたのも、これまた当然であった。
(…)
たしかに、「分類」は近代という時代を特徴づけるものだったかもしれないが、理論的ないとなみが、個別的、具体的な現象に埋没せずに、ある普遍的な法則をもとめようとするかぎり、「分類」は――むしろ、「区分」といったほうがいいかもしれないが――欠かすことのできない作業(操作)のはずである。
浅沼圭司
『読書について』
東京大学 2007年度 第1問
社会の連帯、つまり現成員相互の連帯は必ず表現されなければならない。さもなくばそれは意識されなくなり、弱体化してしまう。まったく同じことがもう一つの社会的連帯、つまり現成員と先行者との連帯にも当てはまる。この連続性が現にあるというだけでは足りない。それは表現され、意識可能な形にされ、それによって絶えず覚醒されるのでなければならない。この縦の連続性=伝統があってこそ、社会は真に安定し、強力であり得る。それゆえ、先行者は象徴を通じてその実在性がはっきり意識できるようにされなければならない。先行者の世界は、象徴化される必然性を持つということである。
宇都宮輝夫
「死と宗教」
東京大学 2006年度 第1問
生命倫理などで繰り返される「社会的合意」の「社会」なるものが、いかに捉えどころのないものであるかは、その「合意」の確認の困難さからも想像がつく。(…)合意が達成され機能するとしても、それは当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく、「合意した」という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎない。そういう意味でいえば、「合意」とはまさに形成されたもの、作りものであり、それが「事実」と呼ばれるとしても、作る作用(ファケーレ)に支えられた事実(ファクト)でしかないのである。
伊藤徹
『柳宗悦 手としての人間』
東京大学 2004年度 第1問
あの会話をした日から一ヶ月経って、李良枝は急死した。ぼくの記憶の中で、彼女は若々しい声として残っている。「日本人」として生まれなかった、日本語の感性そのものの声を、思い出す度に、「母国語」と「外国語」とは何か、一つのことばの「美しさ」は何なのか、 そのわずかの一部をかち取るために自分自身は何を裏切ったのか、今でもよく考えさせられる。
リービ英雄
「ぼくの日本語遍歴」
東京大学 2001年度 第1問
1-3. 記憶
物語的理性が認識する事実と歴史とは
だいいち「前九年の役」という呼称そのものが、すでに一定の「物語り」のコンテクストを前提としています。つまり「前九年の役」という歴史的出来事はいわば「物語り負荷的」な存在なのであり、その存在性格は認識論的に見れば、素粒子や赤道などの「理論的存在」と異なるところはありません。
野家啓一
『歴史を哲学する――七日間の集中講義』
東京大学 2018年度 第1問
分析家はいつかは、分析家自身の視点から事態を眺め、そうした患者の世界を理解することができなければならない。そうした理解の結果、分析家は何かを伝える。そうして伝えられる患者理解の言葉、物語、すなわち解釈というものに患者は癒される部分があるが、おそらくそれだけではない。
藤山直樹
『落語の国の精神分析』
東京大学 2014年度 第1問
歴史の問題が「記憶」の問題として思考される、という傾向が顕著になったのはそれほど昔のことではない。歴史とはただ遺跡や史料の集積と解読ではなく、それらを含めた記憶の行為であることに注意がむけられるようになった。(…)歴史とは個人と集団の記憶とその操作であり、記憶するという行為をみちびく主体性と主観性なしにはありえない。つまり出来事を記憶する人間の欲望、感情、身体、経験を超越してはありえないのだ。
(…)
量的に歴史をはるかに上回る記憶のひろがりの中にあって、歴史は局限され、一定の中心にむけて等質化された記憶の束にすぎない。
宇野邦一
『反歴史論』
東京大学 2008年度 第1問
名、記憶、伝統、こうした社会の連続性をなすものこそ社会のアイデンティティを構成するのであり、社会を強固にしてゆく。言うまでもなくそれは個人のアイデンティティの基礎であるがゆえに、それを安定させもする。したがって、個人が自らの生と死を安んじて受け容れる社会的条件は、社会のこうした連続性なのである。
宇都宮輝夫
「死と宗教」
東京大学 2006年度 第1問
かくして、ひとは、如何なる決断を下すか考慮しつつ、自らの属性や過去の出来事を適宜選択し解釈したうえで、自らの物語の「筋」を求めるのであり、他方、様々にありうる「筋」を探索するなかで、決断の内容が次第に形を整えていくのである。その際、過去の様々な事実が、その時点で実際に感じられたり思考されたのとは異なった意味づけが下される場合もあるであろう。(…)このようにして、物語は、現在を通して過去と未来を媒介する。すなわち、さまざまな「筋」の可能性を秘めた物語のなかで、過去と現在が未来を規定し、また、現在が過去を規定するのである。
(…)
切実な自己理解の要求から語られた物語は、「真実性」を有する。ここでの真実性とは、まず、当人の物語を構成している個々の出来事や思い出が、当人にとって真に実在したものであると考えられており、かつ他人も、その実在を何らかの形で承認しうることを意味する。
坂本多加雄
『象徴天皇制度と日本の来歴』
東京大学 1998年度 第1問
1-4. 知覚
世界が人間に現象するメカニズムとは
その人の経験の積み重ね、つまり、そのひとの履歴と空間に蓄積された空間の履歴との交差こそが風景を構築するのである。一人ひとりが自分の履歴をベースに河川空間に赴き、風景を知覚する。だからその風景は人びとに共有される空間の風景であるとともに、そのひと固有の風景でもある。風景こそ自己と世界、自己と他者が出会う場である。空間再編の設計は、ひとにぎりの人びとの概念の押しつけであってはならない。
桑子敏雄
『風景のなかの環境哲学』
東京大学 2011年度 第1問
1-5. 科学
それはいったいどういう営みなのか
科学は、混沌とした世界に、法則やそれを担う分子機構といった何かの実体、つまり「形」を与えていく人の営為と言える。
(…)
それはある意味、人類が世界の秩序を理解し、変わることない “不動” の姿を、つかんだということだ。何が起こったのかわけが分からなかった世界に、確固とした「形」が与えられたのだ。
中屋敷均
「科学と非科学のはざまで」
東京大学 2019年度 第1問
科学哲学では、このように直接的に観察できない対象のことを「理論的存在」ないしは「理論的構成体」と呼んでいます。(…)見聞臭触によって知覚的に観察可能なものだけが「実在」するという狭隘な実証主義は捨て去らねばなりませんが、他方でその「実在」の意味は理論的「探究」の手続きと表裏一体のものであることにも留意せねばなりません。
野家啓一
『歴史を哲学する――七日間の集中講義』
東京大学 2018年度 第1問
現在の大部分の科学者は、対象の中に法則性があることを疑っては居らず、対象に内在するはずの「法則」を発見しようとしている。この場合、「法則」が存在するかどうかは科学の問題ではない。それは現代の科学者にとっては自明の前提なのであって、つまり前提なのである。
しかし、対象の中に法則があるかどうかは必ずしも自明であるわけではない。
(…)
科学者にとってこの前提が意識されないもう一つの主な理由は、科学には前提を前提と見なさない無反省の態度が結びついているからである。(…) 「自分の見方がつねに正しくて、他人はすべて間違っている」と思っていることを科学者の特質として挙げた人がいるが、まさにその通りなのであって、過去の科学者もその当時において本人は「ありのままに見ている」と思っていたのである。
坂本賢三
『科学思想史』
東京大学 1996年度 第1問
1-6. 科学
テクノロジーはなにを生み出すのか
テクノロジーは、それまでできなかったことを可能にすることによって、人間が従来それに即して自らを律してきた虚構、しかもその虚構性が気づかれなかった虚構、すなわち神話を無効にさせ、もしくは変質を余儀なくさせた。それは、不可能であるがゆえにまったく判断の必要がなかった事態、「自然」に任すことができた状況を人為の範囲に落とし込み、これに呼応する新たな虚構の産出を強いるようになったのである。そういう意味でテクノロジーは、人間的生のあり方を、その根本のところから変えてしまう。
伊藤徹
『芸術家たちの精神史』
東京大学 2017年度 第1問
近代科学が明らかにしていった自然法則は、自然を改変し操作する強力なテクノロジーとして応用されていった。しかも自然が機械にすぎず、その意味や価値はすべて人間が与えるものにすぎないのならば、自然を徹底的に利用することに躊躇を覚える必 要はない。本当に大切なのは、ただ人間の主観、心だけだからだ。こうした態度の積み重ねが現在の環境問題を生んだ。
河野哲也
『意識は実在しない』
東京大学 2012年度 第1問
歴史的に見ると、近代社会における中心的な問題は自然に対する技術であったが、それが産業革命となり、その後その影響から重大な社会問題が生ずるに至り、現代においては社会に対する技術が中心的な問題になっているということができるであろう。
三木清
『哲学入門』
東京大学 2005年度 第1問
だがこの論理は事態の「不気味さ」に目をつむっている。医療のテクノロジーがもたらしたのは、「人ではない身体」とか人体の「資材」化とかいう、人間のまったく「非人間的」な可能性なのだ。核兵器や遺伝子工学が象徴するように、現代のテクノロジーはもはや人間の道具におさまる範囲を超えて進んでいる。そこでは人間に「役立つ」はずのことが、人間を「非人間化」するようにさえ働くことになる。人間はテクノロジーの主人ではなく、テクノロジーが変えてゆく世界の中で、いつのまにか自分もいっしょに変えられているのだ。だから人間はこの「不気味」な状況を欺瞞なしに受けとめ、そこに身を開きながらありうべき関係を探ってゆくほかはない。それが「非人間化」する世界の中で、唯一保ちうる「人間的」態度だと言えるだろう。
西谷修
「問われる『身体』の生命」
東京大学 1998年度 第1問
1-7. 科学
その根底にある自然観とは
近代科学の自然観には、中世までの自然観と比較して、いくつかの重要な特徴がある。
第一の特徴は、機械論的自然観である。
(…)
第二に、原子論的な還元主義である。
(…)
ここから第三の特徴として、物心二元論が生じてくる。
(…)
物理学が記述する自然の客観的な真の姿と、私たちの主観的表象とは、質的にも、存在の身分としても、まったく異質のものとみなされる。
これが二元論的な認識論である。そこでは、感性によって捉えられる自然の意味や価値は主体によって与えられるとされる。
河野哲也
『意識は実在しない』
東京大学 2012年度 第1問
まず自然は、近代の自然科学的な見方からいえば、それ自体としては価値や目的を含まず、因果的・機械論的に把握される世界である。人間ももちろん自然の一部分であるから、人為と自然の対立はない。人間が自然にどのような人為を加えても、それは自然に反するものではなく、人間による自然破壊というようなことはありえないであろう。自然のある状態とかある段階に特に価値があるとする理由もない。すべての事象は等しく自然的である。
加茂直樹
『社会哲学の現代的展開』
東京大学 2000年度 第1問
科学研究にあたって前提とされているのは、一つには、対象はこのようにできているはずだという自然観(社会観)と、第二に、このようにアプローチすれば対象を把握することができるという研究方法である。研究方法はいうまでもなく、自然観からくる。対象がある要素から成り立っているとする自然観を採れば、できるだけ分解・分析して要素を見出し、要素間の関係を発見しようとするアプローチの仕方が方法となる。
坂本賢三
『科学思想史』
東京大学 1996年度 第1問
2.〈情〉を問う
2-1. Sense of Wonder
偉業を達成するには、揺るがぬ信念が必要です。それが、我々が成果を出せる理由です。
2-2. 芸術総論
アートとは/人はなぜアートするのか
白い紙の上に決然と明確な表現を屹立させること。不可逆性を伴うがゆえに、達成には感動が生まれる。またそこには切り口の鮮やかさが発現する。その営みは、書や絵画、詩歌、音楽演奏、舞踊、武道のようなものに顕著に現れている。(…)音楽や舞踊における「本番」という時間は、真っ白な紙と同様の意味をなす。聴衆や観衆を前にした時空は、まさに「タブラ・ラサ」、白く澄みわたった紙である。
原研哉
『白』
東京大学 2009年度 第1問
創作がきわだって個性的な作者、天才のいとなみであること、したがってそのいとなみの結実である作品も、かけがえのない存在、唯一・無二の存在であること、このことは近代において確立し、現代にまでうけつがれている通念といっていい。
(…)
個々の作品は、あるジャンルに明確に所属することによって、はじめて芸術という自律的な領域のなかに位置づけられるが、この領域の自律性こそが、芸術に特有の価値(文化価値)の根拠でもあるのだから、ジャンルへの所属は、作品の価値のひとつの根拠ともなるだろう。
(…)
近代から区別された現代という時代の特徴としてしばしばあげられるものに、あらゆる基準枠ないし価値基準の、ゆらぎないし消滅がある。芸術も、その例外ではない。
浅沼圭司
『読書について』
東京大学 2007年度 第1問
芸術を制作的活動から出立して考察し、その一般的原理は美でなく却って真理であるといったフィードレルは、芸術的に真であることは、意図の、意欲の問題でなく、才能の、能力の問題であると述べている。
三木清
『哲学入門』
東京大学 2005年度 第1問
2-3. 芸術各論
ことば/文学とはどういう営みか
ランボーが、《Tu voles selon....》(……のままに飛んでいく)と書いたことのうちには、つまりこういう語順、構文、語法として〈意味する作用や働き〉を行なおうとし、なにかを言い表そうと志向したこと、それをコミュニケートしようとしたことのうちには、なにかしら特有な、独特なもの、密かなものが含まれている。(…)そこにはランボーという書き手の(というよりも、そうやって書かれた、このテクストの)独特さ、特異な単独性が込められているからだ。すなわち、通常ひとが〈個性〉と呼ぶもの、芸術家や文学者の〈天分〉とみなすものが宿っているからである。
湯浅博雄
「ランボーの詩の翻訳について」
東京大学 2013年度 第1問
2-4. 芸術各論
絵画とはどういう営みか
これまで培ってきた私たちの経験や実績をもとに、数々の素晴らしいお客様にご愛顧いただいております。
2-5. 芸術各論
演劇とはどういう営みか
演劇などのパフォーミングアートにはすべて、何かを演じようとする自分と見る観客を喜ばせようとする自分の分裂が存在する。それは「演じている自分」とそれを「見る自分」の分裂であり、世阿弥が「離見の見」として概念化したものである。(…)完全に異質な自分と自分との対話が必要なのである。
藤山直樹
『落語の国の精神分析』
東京大学 2014年度 第1問
テキスト
2-6. 芸術各論
音楽とはどういう営みか
これまで培ってきた私たちの経験や実績をもとに、数々の素晴らしいお客様にご愛顧いただいております。
2-7. 芸術各論
写真とはどういう営みか
これまで培ってきた私たちの経験や実績をもとに、数々の素晴らしいお客様にご愛顧いただいております。
3.〈意〉を問う
3-1. 意味・価値・倫理
その起源と解体、再生の可能性を問う
選択的妊娠中絶の問題一つをとってみても、最終的な決定基準があるなどとは思えない。むしろ肯定・否定を問わず、いかなる論理をもってきても、それを基礎づけるものが欠けていること、そういう意味で実践的判断が虚構的なものでしかないことは明らかだと、私は考えている。
(…)
だが、行為を導くものの虚構性の指摘が、それに従っている人間の愚かさの摘発にとどまるならば、それはほとんど意味もないことだろう。虚構とは、むしろ人間の行為、いや生全体に不可避的に関わるものである。人間は、虚構とともに生きる、あるいは虚構を紡ぎ出すことによっておのれを支えているといってもよい。
伊藤徹
『芸術家たちの精神史』
東京大学 2017年度 第1問
二元論によれば、自然は、何の個性もない粒子が反復的に法則に従っているだけの存在となる。こうした宇宙に完全に欠落しているのは、ある特定の場所や物がもっているはずの個性である。時間的にも空間的にも極微にまで切り詰められた自然は、場所と歴史としての特殊性を奪われる。
河野哲也
『意識は実在しない』
東京大学 2012年度 第1問
河川の空間は、時間の経過とともに履歴を積み上げていく。その履歴が空間に意味を与えるのである。(…)概念的コントロールによる意味付与は、河川空間の設計者の頭のなかにある空間意味づけであり、河川とはこういうものであるべきだ、という強制力をもつ。
(…)
履歴は概念のコントロールとは違って、ひと握りの人間の頭脳のなかに存在するものではない。多くの人びとの経験の蓄積を含み、さらに自然の営みをも含む。こうして積み上げられた空間の履歴が、その空間に住み、またそこを訪れるそれぞれのひとが固有の履歴を構築する基盤となる。
桑子敏雄
『風景のなかの環境哲学』
東京大学 2011年度 第1問
個々の作品は、あるジャンルに明確に所属することによって、はじめて芸術という自律的な領域のなかに位置づけられるが、この領域の自律性こそが、芸術に特有の価値(文化価値)の根拠でもあるのだから、ジャンルへの所属は、作品の価値のひとつの根拠ともなるだろう。
(…)
近代から区別された現代という時代の特徴としてしばしばあげられるものに、あらゆる基準枠ないし価値基準の、ゆらぎないし消滅がある。芸術も、その例外ではない。
浅沼圭司
『読書について』
東京大学 2007年度 第1問
たとえ客観的には社会全体の生がいかに脆い基盤の上にしか据えられていなくとも、また主観的にそのことが認識されていても、それでも他者のために死の犠牲を払うことは評価の対象となる。これこそ宗教が死の本質、そして命の本質を規定する際には多くの場合に前面に打ち出す「犠牲」というモチーフである。それは、全体の命を支えるという、一時は自らが担った使命を果たし終えたとき、他の生に道を譲り退く勇気であり、諦めなのである。(…)このモチーフは、いわば命のリレーとして、先行者の世界と生者の世界とをつないでいる価値モチーフであるように思われる。そうであれば、先行者の世界に関する表象の基礎にある世俗的一般的価値理念と、来世観の基礎にある宗教的価値理念との間には、通底するないし対応するところがあるように思われる。
宇都宮輝夫
「死と宗教」
東京大学 2006年度 第1問
例えばギリシア人にとっては、徳はまさに有能性、働きの立派さを意味したのである。この見方はルネサンスの時代に再び現われた。徳は力であるということも同様の見方に属している。実際、人間の行為はつねに環境における活動であり、かようなものとして本質的に技術的であることを思うならば、徳を有能性と考えること、それを力と考えることでさえも、理由があるといわねばならぬ。行為は単に意識の問題でなく、むしろ身体によって意識から脱け出るところに行為がある。従って徳というものも単に意識に関係して考えらるべきものではないのである。
三木清
『哲学入門』
東京大学 2005年度 第1問
あるいは人間を「自然との共感と相互性」のなかにもち込もうとするかの努力も、まちがいなく一つの創作でしかなく、生態系にまで認められるとされる「価値」という、非人間中心主義であるはずのものからは、作りもの特有の人間臭さが漂ってくる。
伊藤徹
『柳宗悦 手としての人間』
東京大学 2004年度 第1問
「慰霊」という行為は、怨霊を鎮めるというだけでなく、もっと広い意味での鎮め、霊に対する生者の心の内部に発生する「後ろめたさ」「負い目」を浄化する行為であった。言いかえれば、生きている日本人は、生きているというだけで、霊に対して弱い立場に置かれていたのである。(…)「霊の目」が、怒りに満ちたものではなく、あるいはこの世に未練を残し続けることなく、安らかなものになるように、と祀りをおこない、供養その他の「慰霊」行為をおこない続ける。それが「祝い祀り」の本質であった。
小松和彦
「ノロイ・タタリ・イワイ」
東京大学 2003年度 第1問
生態系の中で人間がどう生きるべきかを指示する倫理が、人間の共同体における倫理との類比によって簡単に導出されるわけではない。個人の生命の尊重という人間社会の倫理を動物の個体に適用することが、かえってその動物種の破滅を招くというようなことも起こりうるのである。
以上の考察は、生態系そのものに価値があるということを必ずしも含意しない。生態系の概念には、機械論的に把握された自然の概念よりも豊かな内容が含まれているといえるであろう。しかし、それに価値が内在しており、その価値が生態系を守るべしと」いう人間の義務を根拠づけている、と断定するのは難しい。
加茂直樹
『社会哲学の現代的展開』
東京大学 2000年度 第1問
移植治療によって人が生きられるのは、人間が身体的存在だからである。それに、移植される臓器は「生きて」いなければ役に立たない。その「生きている」身体から、それでも臓器の摘出が許されるのは、なかば死に委ねられたこの臓器も、他者の身体に引き取られてしか生きえないからである。つまり死ぬべき臓器は他者において復活するのだ。(…)そのようなリレーのうちに身体的生命はそれ自身の論理を貫いており、部分身体の受容と復活をとおして、不老長寿とは別の「不死性」のきらめきさえのぞかせている。
西谷修
「問われる『身体』の生命」
東京大学 1998年度 第1問
3-2. 個人
その概念の特異性を問う
選択の論理は個人主義にもとづくものであるが、その具体的な存在のかたちは市民であり顧客である。この論理の下で患者は顧客となる。医療に従属させられるのではなく、顧客はみずからの欲望にしたがって商品やサービスを主体的に選択する。医師など専門職の役割は適切な情報を提供するだけである。選択はあなたの希望や欲望にしたがってご自由に、というわけだ。これはよい考え方のように見える。
松嶋健
「ケアと共同性 ー 個人主義を超えて」
東京大学 2021年度 第1問
近代は神を棄て、〈個人〉という未曾有の表象を生み出した。自由意志に導かれる主体の誕生だ。所与と行為を峻別し、家庭条件や遺伝形質という〈外部〉から切り離された、才能や人格という〈内部〉を根拠に自己責任を問う。だが、これは虚構だ。
小坂井敏晶
「『神の亡霊』6 近代の原罪」
東京大学 2020年度 第1問
その他倫理的基準なるものを支えているとされる概念、たとえば「個人の意思」や「社会的コンセンサス」などが、その美名にもかかわらず、虚構性をもっていることは、少しく考えてみれば明らかである。主体となる「個人」など、確固としたものであるはずがなく、その判断が、時と場合によって、いかに動揺し変化するかは、誰しもが経験することであり、そもそも「個人の意思」を書面で残して「意思表明」とするということ自体、かかる「意思」なるものの可変性をまざまざと表わしている。
伊藤徹
『芸術家たちの精神史』
東京大学 2017年度 第1問
近代の人間観は原子論的であり、近代的な自然観と同型である。近代社会は、個人を伝統的共同体の桎梏から脱出させ、それまでの地域性や歴史性から自由な主体として約束した。つまり、人間個人から特殊な諸特徴を取り除き、原子のように単独の存在として遊離させ、規則や法に従ってはたらく存在として捉えるのだ。こうした個人概念は、たしかに近代的な個人の自由をもたらし、人権の概念を準備した。
河野哲也
『意識は実在しない』
東京大学 2012年度 第1問
プライバシー意識が、内面を中心として形成されてきたのは、この時代の個人の自己の解釈様式に対応しているからだ。つまり、個人を知る鍵はその内面にこそある。(…)社会的自己の本質が、個人のうちにあると想定されているような社会文化圏では、プライバシーのための防壁は、私生活領域、親密な人間関係、身体、心などといった、個人それ自体の周囲をとりまくようにして形づくられる。つま り、個人の内面を中心にして、同心円状に広がるプライバシーは、人間の自己の核心は内面にあるとする文化的イメージ、そしてこのイメージにあわせて形成される社会システムに対応したものである。
(…)
これは個人の自己の統一性というイデオロギーに符合する。自己は個人の内面によって統括され、個人はそれを一元的に管理することになる。このような主体形成では、個人は自分自身の行為や表現の矛盾、あるいは過去と現在との矛盾に対し、罪悪感を抱かされることになる。というのも自分自身のイメージやアイデンティティを守ることは、ひたすら個人自らの責任であり、個人が意識的におこなっていることだからだ。
阪本俊生
『ポスト・プライバシー』
東京大学 2010年度 第1問
個が他のなにものにも拠らず存在しているのであれば、それはそもそも解体しようもないだろう。それが解体してしまうのは、個そのものが集団のなかで作られていく作りものにすぎないからであり、集団への個の解体とは、個のそうしたフィクショナルな存在性格が露呈してきたことだと、私は考えるのである。
伊藤徹
『柳宗悦 手としての人間』
東京大学 2004年度 第1問
一般に、人が自らの究極的孤絶性を肌膚に烙印のごとく自覚するのは、死を迎えることにおいて最も著しいが、しかしその孤絶性を知性によって理解することは、むしろたやすい。とりわけデカルト以来の西欧近代思想の洗礼を受けたものにとってはそうである。そして現実の世界における「人間」性、つまり人が人と人との間の関係性のなかで生きていることと、表層的に理解された人の孤絶性との矛盾を乗り越えるために、われわれはさまざまな方法を案出して、孤絶した人と人との間に、何らかの架橋を施さんとするのである。
しかし、知性において理解された表層的な人間の孤絶性は、むしろある立場からすれば誤っていると言えるのかもしれない。
村上陽一郎
『生と死への眼差し』
東京大学 2002年度 第1問
3-3. 責任
だれが責任を負うのか
ただこの選択の論理の下では、顧客は一人の個人であり、孤独に、しかも自分だけの責任で選択することを強いられる。インフォームド・コンセントはその典型的な例である。しかも選択するには自分が何を欲しているかあらかじめ知っている必要があるが、それは本人にとってもそれほど自明ではない。
松嶋健
「ケアと共同性 ー 個人主義を超えて」
東京大学 2021年度 第1問
自由に選択した人生だから自己責任が問われるのではない。逆だ。格差を正当化する必要があるから、人間は自由だと社会が宣言する。努力しない者の不幸は自業自得だと宣告する。近代は人間に自由と平等をもたらしたのではない。不平等を隠蔽し、正当化する論理が変わっただけだ。
小坂井敏晶
「『神の亡霊』6 近代の原罪」
東京大学 2020年度 第1問
たとえば現世代の化石燃料の消費を将来世代への責任(レスポンシビリティー)によって制限しようとする論理は、物語としては理解できるが、現在存在しないものに対する責任など、応答(レスポンス)の相手がいないという点で、想像力の産物でしかないといわざるをえない。
伊藤徹
『芸術家たちの精神史』
東京大学 2017年度 第1問
急速に広まった情報のネットワークを支えているコンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつことによって、「責任」の所在はおろか、その概念の意味さえ曖昧になっているといわれる。近代思想のなかで「責任」が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだったことからすれば、「責任」概念の曖昧化は、自己存在が情報の網目へと解体されていくことを示唆する現象であろう。
伊藤徹
『柳宗悦 手としての人間』
東京大学 2004年度 第1問
生物共同体を構成する他の生物たちには権利や義務の意識はない。だから、いずれかの種が生態系の安定を乱すとしても、そのことについてその種の責任を問うことはできない。人間という種は、生態系を他の種よりも大きく乱す可能性をもつという点で特異であろうが、それについて反省し責任を感ずる能力を有するという点でも特異である。
加茂直樹
『社会哲学の現代的展開』
東京大学 2000年度 第1問
3-4. 自由
平等や公平とどうやって両立させるか
たとえば、地域に住む若者がひきこもっているような場合、個人の自由の論理にしたがうことで状況を放置すると、結局その若者自身と家族は自分たちではどうすることもできないところまで追い込まれてしまうことになる。そのような事態を回避し、地域における集合的な精神保健の責任をスタッフは負うのである。
松嶋健
「ケアと共同性 ー 個人主義を超えて」
東京大学 2021年度 第1問
貧乏が原因で進学できず、出世を断念するならば、当人のせいではない。不平等な社会は変えるべきだ。批判の矛先が外に向く。対して自由競争の下では違う感覚が生まれる。成功しなかったのは自分に能力がないからだ。社会が悪くなければ、変革運動に関心を示さない。
小坂井敏晶
「『神の亡霊』6 近代の原罪」
東京大学 2020年度 第1問
近代社会に出現した自由で解放された個人は、同時に、ある意味でアイデンティティを失った根無し草であり、誰とも区別のつかない個性を喪失しがちな存在である。そうした誰とも交換可能な、個性のない個人(政治哲学の文脈では「負荷なき個人」と呼ばれる)を基礎として形成された政治理論についても、現在、さまざまな立場から批判が集まっている。物理学の微粒子のように相互に区別できない個人観は、その人のもつ具体的な特徴、歴史的背景、文化的・社会的アイデンティティ、特殊な諸条件を排除することでなりたっている。
だが、そのようなものとして人間を扱うことは、本当に公平で平等なことなのだろうか。
河野哲也
『意識は実在しない』
東京大学 2012年度 第1問
3-5. 死
どう向き合い生にいかすか
この観点から見るとき、個我の孤絶性は、少なくとも生にある限り、むしろ、抽象的構成に近いものと言うべきである。それゆえにこそ、第一人称が迎えんとする死こそ、人間にとって極限の孤絶性、仮借なき絶望の孤在を照射する唯一つのものなのかもしれない。
村上陽一郎
『生と死への眼差し』
東京大学 2002年度 第1問
4.〈私〉のなりたち
4-1. 〈私〉という現象
そのダイナミズムに迫る
過去の自分と現在の自分という二つの自分があるのではない。あるのは、今働いている自分ただ一つである。生成しているところにしか自分はない。
(…)
生成の方向性は、棒のような方向性ではなく、生成の可能性として自覚されるのである。自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この「……でない」という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。
池上哲司
『傍にあることー老いと介護の倫理学』
東京大学 2015年度 第1問
人間が本質的に分裂していることこそ、精神分析の基本的想定である。意識と無意識でもいい、自我と超自我とエスでもいい、精神病部分と非精神病部分でもいい、本当の自己と偽りの自己でもいい、自己のなかに自律的に作動する複数の自己があって、それらの対話と交流のなかにひとまとまりの「私」というある種の錯覚が生成される。それが精神分析の基本的な人間理解のひとつである。落語を観る観客はそうした自分自身の本来的な分裂を、生き生きとした形で外から眺めて楽しむことができるのである。
藤山直樹
『落語の国の精神分析』
東京大学 2014年度 第1問
心の技術は社会から逃避するための技術となってはならぬ。身を修めることは社会において働くために要求されているのである。修業はむしろ社会的活動のうちにおいて行われるのである。我々は環境を形成してゆくことによって真に自己を形成してゆくことができる。
三木清
『哲学入門』
東京大学 2005年度 第1問
高校生のとき私は鉄棒の蹴上りがどうしてもできなかった。ところがあるとき私の前に何人かの人びとが、次々に蹴上りを演じてみせた。何の気なく次に鉄棒に下った私は、それまでに演じた人びとと全く同じことをして、何ということもなく、何らの自覚もなしで、鉄棒の上に上ってしまった。このとき、「われわれ」が「私」を造りあげていた、という言い方が許されるだろう。
村上陽一郎
『生と死への眼差し』
東京大学 2002年度 第1問
身体一般というのは医学研究者にとっては存在しても、ひとりひとりの個人には存在しない。身体はわたしたちにとっていつも「だれかの身体」なのだ。痛みひとつをとっても、それはつねにわたしの痛みであって、その痛みをだれか任意の他人に代わってもらうなどということはありえない。そのとき、痛みはわたしの痛みというより、わたしそのものとなっており、わたしの存在と痛みの経験とを区別するのはむずかしい。身体にはたしかに「わたしは身体をもつ」と言うのが相応しい局面があるにはあるが、同時に「わたしは身体である」と言ったほうがびったりとくる局面もあるのである。
鷲田清一
『普通をだれも教えてくれない』
〈身体、この遠きもの〉
東京大学 1999年度 第1問
4-2. 身体・感情・思考
その神秘性に迫る
脆弱であり予測不可能で苦しみのもとになる身体は、同時に生を享受するための基体でもある。この薬を使うとたとえ痛みが軽減するとしても不快だが、別のやり方だと痛みがあっても気にならず心地よいといった感覚が、ケアの方向性を決める羅針盤になりうる。それゆえケアの論理では、身体を管理するのではなく、身体の世話をし調えることに主眼がおかれる。
松嶋健
「ケアと共同性 ー 個人主義を超えて」
東京大学 2021年度 第1問
河川の体験とは、河川空間での自己の身体意識である。風景とはじつはそれぞれの身体に出現する空間の表情にほかならないからである。風景の意味はひとそれぞれによって異なっている。河川の空間が豊かな空間であるということは、何かが豊かに造られているから豊かだ、ということではない。とりわけて何もつくられていなくても、たとえば、ただ川に沿って道があり、川辺には草が生えていて、水鳥が遊び、魚が跳ねる、ということであっても、そのような風景の知覚がひとそれぞれに多様な経験を与える。体験の多様性の可能性が空間の豊かさである。
桑子敏雄
『風景のなかの環境哲学』
東京大学 2011年度 第1問
私は「私」として、外界から隔絶されているかのように思われるが、私の身体さえ、楽器や楽弓のように、あたかも拡大されたかのように感じられることさえある。車を運転する熟達したドライヴァは、車の外壁をあたかも自らの身体と同じように感じる。他方、人間は自己によって自らの身体を支配・制御しているかのように錯覚しているが、実は、自らの身体的支配はつねに他者の模倣によって獲得される、という事実を忘れることはできない。
村上陽一郎
『生と死への眼差し』
東京大学 2002年度 第1問
身体は、わたしが随意に使用しうる「器官」である。が、その身体をわたしは自由にすることができない。痛みが身体のそこかしこを突然襲うこと、あるいは身体にも《倦怠》が訪れることに、だれも抗うことはできない。このことを、「存在と所有」の著者 G・マルセルは次のような逆説としてとらえる。つまり、「わたしが事物を意のままにすることを可能にしてくれるその当のものが、現実にはわたしの意のままにならない」という逆説のなかに、かれは「不随意性〔意のままにならないこと〕ということの形而上学的な神秘」を見てとるのである。
(…)
身体は皮膚に包まれているこの肉の塊のことだ、と、これもだれもが自明のことのように言う。が、これもどうもあやしい。(…)わたしたちの身体の限界は、その物体としての身体の表面にあるわけではない。わたしたちの身体は、その皮膚を超えて伸びたり縮んだりする。(…)身体空間は物体としての身体が占めるのと同じ空間を構成するわけではないの だ。
鷲田清一
『普通をだれも教えてくれない』
〈身体、この遠きもの〉
東京大学 1999年度 第1問
移植治療によって人が生きられるのは、人間が身体的存在だからである。それに、移植される臓器は「生きて」いなければ役に立たない。その「生きている」身体から、それでも臓器の摘出が許されるのは、なかば死に委ねられたこの臓器も、他者の身体に引き取られてしか生きえないからである。つまり死ぬべき臓器は他者において復活するのだ。(…)そのようなリレーのうちに身体的生命はそれ自身の論理を貫いており、部分身体の受容と復活をとおして、不老長寿とは別の「不死性」のきらめきさえのぞかせている。
西谷修
「問われる『身体』の生命」
東京大学 1998年度 第1問
4-3. アイデンティティ/個性
河川を活かした都市の再構築というとき、時間意識が必要である。川は長い時間をかけて育つもの、自然の力によって育つものであり、人間はその手助けをすべきものである。自然の力と人間の手助けによって川に個性が生まれる。時間をかけて育てた空間だけが、その川の川らしさ、つまり、個性をもつことができる。
桑子敏雄
『風景のなかの環境哲学』
東京大学 2011年度 第1問
これは個人の自己の統一性というイデオロギーに符合する。自己は個人の内面によって統括され、個人はそれを一元的に管理することになる。このような主体形成では、個人は自分自身の行為や表現の矛盾、あるいは過去と現在との矛盾に対し、罪悪感を抱かされることになる。というのも自分自身のイメージやアイデンティティを守ることは、ひたすら個人自らの責任であり、個人が意識的におこなっていることだからだ。
阪本俊生
『ポスト・プライバシー』
東京大学 2010年度 第1問
歴史は、ある国、ある社会の代表的な価値観によって中心化され、その国あるいは社会の成員の自己像(アイデンティティ)を構成するような役割をになってきた(…)歴史そのものが、他の無数の言葉とイメージの間にあって、相対的に勝ちをおさめてき た言葉でありイメージなのだ。
宇野邦一
『反歴史論』
東京大学 2008年度 第1問
名、記憶、伝統、こうした社会の連続性をなすものこそ社会のアイデンティティを構成するのであり、社会を強固にしてゆく。言うまでもなくそれは個人のアイデンティティの基礎であるがゆえに、それを安定させもする。したがって、個人が自らの生と死を安んじて受け容れる社会的条件は、社会のこうした連続性なのである。
宇都宮輝夫
「死と宗教」
東京大学 2006年度 第1問
当人の「何者」をもっともよく明らかにするのは、上に見たように、何よりも当人にとって切実な自己理解の要求に基づいて語られた物語であり、そして、そのような物語こそが、他者に対しても、当人についてのより充実した「理解」を与えるのである。
(…)
切実な自己理解の要求から語られた物語は、「真実性」を有する。ここでの真実性とは、まず、当人の物語を構成している個々の出来事や思い出が、当人にとって真に実在したものであると考えられており、かつ他人も、その実在を何らかの形で承認しうることを意味する。
坂本多加雄
『象徴天皇制度と日本の来歴』
東京大学 1998年度 第1問
5.〈他者〉との交通
5-1. コミュニケーション
理解も共感も絶した他者との交信
そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけるということであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組み直されることが、自分の生成である。そしてこの生成の運動において、いわゆる自分の自分らしさというものも現れるのである。
(…)
自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。そして、自分が生成することを止めてからも、その働きが可能であるとするならば、その可能性はこの現在生成している自分に含まれているはずである。
池上哲司
『傍にあることー老いと介護の倫理学』
東京大学 2015年度 第1問
そしてこのことは、もっと大きなパースペクティブにおいて見ると、諸々の言語の複数性を引き受けるということ、他者(他なる言語・文化、異なる宗教・社会・慣習・習俗など)を受け止め、よく理解し、相互に認め合っていかねばならないということ、 そのためには必然的になんらかの「翻訳」の必然性を受け入れ、その可能性を探り、拡げ、掘り下げていくべきであるということに結ばれているだろう。翻訳は諸々の言語・文化・宗教・慣習の複数性、その違いや差異に細心の注意を払いながら、自らの母語 (いわゆる自国の文化・慣習)と他なる言語(異邦の文化・慣習)とを関係させること、対話させ、競い合わせることである。そうだとすれば、翻訳という営為は、諸々の言語・文化の差異のあいだを媒介し、可能なかぎり横断していく営みであると言えるのではないだろうか。
湯浅博雄
「ランボーの詩の翻訳について」
東京大学 2013年度 第1問
その人の経験の積み重ね、つまり、そのひとの履歴と空間に蓄積された空間の履歴との交差こそが風景を構築するのである。一人ひとりが自分の履歴をベースに河川空間に赴き、風景を知覚する。だからその風景は人びとに共有される空間の風景であるとともに、そのひと固有の風景でもある。風景こそ自己と世界、自己と他者が出会う場である。空間再編の設計は、ひとにぎりの人びとの概念の押しつけであってはならない。
桑子敏雄
『風景のなかの環境哲学』
東京大学 2011年度 第1問
独立な主体と主体とは、客観的に表現された文化を通じて結合される。主体と主体とはすべて表現を通じて行為的に関係する。人と人とが挨拶を交わすとき、その言葉はすでに技術的に作られたものである。挨拶は修辞学的であり、修辞学は言葉の技術である。そのとき、彼等が帽子をとるとすれば、そこにまたすでに一つの技術がある。一般に礼儀作法というものは技術に属している。技術的であることによって人間の行為は表現的になる。
三木清
『哲学入門』
東京大学 2005年度 第1問
一般に、人が自らの究極的孤絶性を肌膚に烙印のごとく自覚するのは、死を迎えることにおいて最も著しいが、しかしその孤絶性を知性によって理解することは、むしろたやすい。とりわけデカルト以来の西欧近代思想の洗礼を受けたものにとってはそうである。そして現実の世界における「人間」性、つまり人が人と人との間の関係性のなかで生きていることと、表層的に理解された人の孤絶性との矛盾を乗り越えるために、われわれはさまざまな方法を案出して、孤絶した人と人との間に、何らかの架橋を施さんとするのである。
しかし、知性において理解された表層的な人間の孤絶性は、むしろある立場からすれば誤っていると言えるのかもしれない。
村上陽一郎
『生と死への眼差し』
東京大学 2002年度 第1問
5-2. 前個我と超個我と愛
孤絶に抗う基盤となるか
母親と「僕」とは、まだ分離しない「われわれ」意識で連なっている。幼児は、次第にそうした言わば前個我的な状況から、母親からの反射の光によって、「僕」を僕として捉えるようになり、それと反射的に母親を第二人称的他者として捉えるようにな る。前個我的「われわれ」状況は、第一人称と第二人称の他者どうしに分極化すると言ってよかろう。つまり、主体の集合体としての「われわれ」は、前個我的「われわれ」状況のある変型として考えるべきではないか。
愛し合う二人の没我的抱擁は、かつての自らを育てた前個我的「われわれ」状況のある形での回復を指向する、一瞬の回復ではないか。
この観点から見るとき、個我の孤絶性は、少なくとも生にある限り、むしろ、抽象的構成に近いものと言うべきである。
村上陽一郎
『生と死への眼差し』
東京大学 2002年度 第1問
5-3. 時間を超えた共同体
その物語にリアリティを感じられるか
たとえば現世代の化石燃料の消費を将来世代への責任(レスポンシビリティー)によって制限しようとする論理は、物語としては理解できるが、現在存在しないものに対する責任など、応答(レスポンス)の相手がいないという点で、想像力の産物でしかないといわざるをえない。
伊藤徹
『芸術家たちの精神史』
東京大学 2017年度 第1問
人間の本質は社会性であるが、それは人間が同時代者に相互依存しているだけではなく、幾世代にもわたる社会の存続に依存しているという意味でもある。換言すれば、生きるとは社会の中に生きることであり、それは死んだ人間たちが自分たちのために残し、与えていってくれたものの中で生きることなのである。その意味で、社会とは、生者の中に生きている死者と、生きている生者との共同体である。
以上のような過去から現在へという方向は、現在から未来へという方向とパラレルになっている。人間は自分が死んだあともたぶん生きている人々と社会的な相互作用を行う。ときにはまだ生まれてもいない人を念頭に置いた行為すら行う。人間は死によって自己の存在が虚無と化し、意味を失うとは考えずに、死を越えてなお自分と結びついた何かが存続すると考え、それに働きかける。その存続する何かに有益に働きかけることに意義を見出すのである。
宇都宮輝夫
「死と宗教」
東京大学 2006年度 第1問
たとえば殺虫剤や核エネルギーが現在の消費生活を支えている一方で、未だ生まれぬ世代の権利を侵害している可能性があるという事態に直面したとき、個人の欲望の制限を受け入れるためにも、後の世代とのなんらかの共同性を、判断の新たな足場として構築しようとしていくのは、自然な流れだろう。
伊藤徹
『柳宗悦 手としての人間』
東京大学 2004年度 第1問
6.〈世〉のしくみ
6-1. 権力
どこに/どのように埋め込まれているか
一九六〇年代に始まった反精神病院の動きは一九七八年には精神病院を廃止する法律の制定へと展開し、最終的にイタリア全土の精神病院が閉鎖されるまでに至る。病院での精神医療に取って代わったのは地域での精神保健サービスだった。これは医療の名のもとで病院に収容する代わりに、苦しみを抱える人びとが地域で生きることを集合的に支えようとするものであり、「社会」を中心におく論理から「人間」を中心におく論理への転換であった。(…)それは公的サービスのなかに国家の論理、とりわけ医療を介した管理と統治の論理とは異なる論理が出現したことを意味している。
松嶋健
「ケアと共同性 ー 個人主義を超えて」
東京大学 2021年度 第1問
マックス・ヴェーバーが『経済と社会』で説いたように、支配関係に対する被支配者の合意がなければ、ヒエラルキーは長続きしない。強制力の結果としてではなく、正しい状態として感知される必要がある。支配が理想的な状態で保たれる時、支配は真の姿を隠し、自然の摂理のごとく作用する。先に挙げたメリトクラシーの詭弁がそうだ。
小坂井敏晶
「『神の亡霊』6 近代の原罪」
東京大学 2020年度 第1問
近代社会が想定する誰でもない個人は、本当は誰でもないのではなく、どこかで標準的な人間像を規定してはいないだろうか。そこでは、標準的でない人々のニーズは、社会の基本的制度から密かに排除され、不利な立場に追い込まれていないだろうか。実際、マイノリティに属する市民、例えば、女性、少数民族、同性愛者、障害者、少数派の宗教を信仰する人たちのアイデンティティやニーズは、周辺化されて、軽視されてきた。個々人の個性と歴史性を無視した考え方は、ある人が自分の潜在能力を十全に発揮して生きるために要する個別のニーズに応えられない。
河野哲也
『意識は実在しない』
東京大学 2012年度 第1問
歴史という概念そのものに、何か強迫的な性質が含まれている。歴史は、さまざまな形で個人の生を決定してきた。個人から集団を貫通する記憶の集積として、いま現存する言語、制度、慣習、法、技術、経済、建築、設備、道具などのすべてを形成し、保存し、破壊し、改造し、再生し、新たに作りだしてきた数えきれない成果、そのような成果すべての集積として、歴史は私を決定する。私の身体、思考、私の感情、欲望さえも、歴史に決定されている。
宇野邦一
『反歴史論』
東京大学 2008年度 第1問
自己が情報によって組織化されるという、この傾向は、ますます一層促進されていくにちがいない。携帯電話がインターネットに組み込まれた今日、大衆のなかでの奇妙な孤独という形で、わずかに一人の時間が許されていた通勤電車のなかにさえ、外部からの組織化が浸透していく。
伊藤徹
『柳宗悦 手としての人間』
東京大学 2004年度 第1問
6-2. 教育
その実態とあるべき姿とは
子どもを分け隔てることなく、平等に知識を培う理想と同時に、能力別に人間を格付けし、差異化する役割を学校は担う。そこに矛盾が潜む。出身階層という過去の桎梏を逃れ、自らの力で未来を切り開く可能性として、能力主義(メリトクラシー)は歓迎された。そのための機会均等だ。だが、それは巧妙に仕組まれた罠だった。
小坂井敏晶
「『神の亡霊』6 近代の原罪」
東京大学 2020年度 第1問
講義を聞いたり教科書を学習するだけでは研究の仕方は身につかない。それは研究の結果を要領よくまとめてあるだけで、研究の過程を示してはいない。(…)そして必ず解ける問題だけが問題として取り上げられている。このような講義や教科書で学んだ科学者が、解ける問題だけ取り上げ、一定の手続きに従って行けば研究になると思い込むのは異とするに足りない。
いずれにせよ科学者は講義と教科書によって、一定の自然観と方法を無意識に身に付けるのであって、すべては自明のこととして受けとられる。小学校のときからそのように育てられているのである。そういうわけで、この前提は、問いの立て方をも決めるものである。
坂本賢三
『科学思想史』
東京大学 1996年度 第1問
6-3. 共同体
孤絶を癒す術となるか
そこには非感染者も参加するようになり、ケアをする者とされる者という一元的な関係とも家族とも異なったかたちでの、ケアをとおした親密性にもとづく「ケアのコミュニティ」が形づくられていった。「近代医療全体は人間を徹底的に個人化することによって成立するものであるが、そこに出現したのはその対極としての生のもつ社会性」(田辺)だったのである。
松嶋健
「ケアと共同性 ー 個人主義を超えて」
東京大学 2021年度 第1問
この「私」の死のもつ徹底的孤絶さのゆえに、人は、迎えるべき死への恐怖を増幅された形で感ずる。日常的世界のなかでは、つねに人間として、人どうしの間の関係性のなかで生きてきたわれわれは、(…)死において、かかる一切の人間としての関係性を喪って、ただ一人で、死を引き受けなければならない。このことへの恐怖こそ、逆説的に、人が人間として生きてきたことへの明証となるだろう。
村上陽一郎
『生と死への眼差し』
東京大学 2002年度 第1問
6-4. 大衆社会
情報化し規格化する消費社会の実態は
「人に話せない心の秘密も、身体に秘められた経験も、いまでは情報に吸収され、情報として定義される」とウィリアム・ボガードはいう。私たちの私生活の行動パターンだけではなく、趣味や好み、適性までもが情報化され、分析されていく。「魅惑的な秘密の空間としてのプライヴァシーは、かつてはあったとしても、もはや存在しない」。ボガードのこの印象的な言葉は、現に起こっているプライバシーの拠点の移行に対応している。
阪本俊生
『ポスト・プライバシー』
東京大学 2010年度 第1問
現在では、あらゆる人々が加筆訂正できる百科事典のようなものがネットの中を動いている。(…)無数の人々の眼にさらされ続ける情報は、変化する現実に限りなく接近し、寄り添い続けるだろう。断定しない言説に審議がつけられないように、その情報はあらゆる評価を回避しながら文体を持たないニュートラルな言葉で知の平均値を示し続けるのである。明らかに、推敲がもたらす質とは異なる、新たな知の基準がここに生まれようとしている。
しかしながら、無限の更新を続ける情報には「清書」や「仕上がる」というような価値観や美意識が存在しない。無限に更新され続ける巨大な情報のうねりが、知の圧力として情報にプレッシャーを与え続けている状況では、情報は常に途上であり終わりがない。
原研哉
『白』
東京大学 2009年度 第1問
けれどもそうした欲望の多様化は、奇妙なことに画一化と矛盾せず進行している。「あなただけの……」と囁く宣伝コピーにもかかわらず、「私だけ」のはずのものに、どこか既製品の臭いがするのであり、「本当にお前が欲しいものはなんなのか」と自ら問い返してみるならば、「本当に」という言葉の虚しい響きが経験されるだけだ。ここでいう「個性」とは、実は大量のパターンのヴェールに隠された画一的なものでしかなく、それへの志向は、私たちとはちがうどこか他所で作られ、いつのまにか私たちに宿り、あたかも私たち自身の内から生じたかのように、私たちを駆り立てていく。(…)欲望の源泉は、相互に絡み合って生成消滅している情報であり、個人はその情報が行き交う交差点でしかない。
伊藤徹
『柳宗悦 手としての人間』
東京大学 2004年度 第1問
6-5. 里と都市
農の営みに「くらし」と「労働」のモデルを見出せるか
これまで培ってきた私たちの経験や実績をもとに、数々の素晴らしいお客様にご愛顧いただいております。
6-6. 環境問題
人類的課題の本質と処方箋
ひとつの生態系は独特の時間性と個性を形成する。そして、そこに棲息する動植物はそれぞれの仕方で適応し、まわりの環境を改造しながら、個性的な生態を営んでいる。自然に対してつねに分解的・分析的な態度をとれば、生態系の個性、歴史性、場所性は見逃されてしまうだろう。これが、環境問題の根底にある近代の二元論的自然観(かつ二元論的人間観・社会観)の弊害なのである
河野哲也
『意識は実在しない』
東京大学 2012年度 第1問
人間以外の生物はもちろん、山や川などにさえ、尊重される価値を見出そうとする傾向は、今やさほど珍奇な印象を与えなくなったが、そこでは人間中心主義を排除しつつ、個人はもちろん、時間的広がりを含み込んだ人類さえも超えて、「地球という同一の生命維持システム」を行為規範の基盤として考えることが試みられるようになっている。
伊藤徹
『柳宗悦 手としての人間』
東京大学 2004年度 第1問
環境問題を取り上げる場合、環境を保護することの妥当性はしばしば自明のこととして前提されている。しかし、「環境の保護」が何を意味するかはそれほど明らかではない。
(…)
環境という概念は、自然や生態系とは異なり、ある主体を前提する。いうまでもなく、いま問われているのは人間という主体とっての環境である。保護されるべきは人間が健康に生存することができる環境である。だから、環境保護は第一義的に人間のためのものである。
以上の考察が正しいとするならば、「地球を救え」とか「自然にやさしく」といった環境保護運動のスローガンは不適切であることになる。このような表現は、人類が自らのためではなく地球や自然のために利他的に努力する、というニュアンスを含むからである。人類が滅びても、地球や自然はなんらかの形で存続しうるであろう。われわれが守らなければならないのは、人類の生存を可能にしている地球環境条件である。だから、われわれの努力を根本的に動機づけるのは人間の利己主義であり、そのことの自覚がまず必要である。
加茂直樹
『社会哲学の現代的展開』
東京大学 2000年度 第1問